アカイモリ企画

両生類とは水でも陸でも生きれるということでなく水と陸がないと生きられないものたちです

モノローグ演劇祭 作品づくりログ

そんな経緯で記事にします。

2019年4月30日
世話になってる若手演出家さん(カリスマ)が企画したモノローグの演劇祭(賞金30万)があって、今日はそれの予選でした。
自分が一番真摯に独白できるものってなんだろうと考え抜いた結果、ニワトリの格好をして松野チョロ松に愛と執着と決意を叫ぶパフォーマンスをしてきました。我ながら頭おかしいな。

白紙を持って読み上げ(リスペクト・タモリ弔辞)、自転車漕いだり手紙破いたり紙吹雪撒いたりしました。
私は絵も描けなければ物語も紡げないマンだから、何か自分に出来る二次創作を見つけたかったというのもある……。

絶対に松ファンにこそ疎まれるアレだなとは思うけど……。

ちなみにテキストは5分という制限時間におさめるため、かなり端折ったり、感情がたがわない程度に捏造したり歪曲したりしてます。
というか、あの頃の私に書けたラブレターは、もう1期24話の頃に最高のが出てるんだよな……。

2019年6月4日
なんかうっかり本戦に進出したので、夏は劇場でチョロ松くんに手紙を読み上げます。

2019年7月24日

 

 

こういう作品やると決まってたので、ある意味「マジか……」という顔をしてます 円盤

2019年8月21日
ひとり芝居であんまりチョロたゃに呼びかけてたら、なんだかだんだん本当にそのうち会える気がしてきた(強めの幻覚)

先週末にCさんKさんと色々話せてマジでよかった…… モノローグしばいづくり、50回通し稽古やるとかより絶対中身の詰まり具合が増した。
自分の解釈を肉声に乗せて話す機会なかなかないからなー。

2019年8月22日
劇中で歌のピッチをあげることで10秒縮められた……!(制限時間5分をすぎると得票から少しずつ削られるシステムの戦いなので必死

🐓が読む手紙はえいが劇中たかはし手紙と似た構造というか、返事を期待してない一方的な「ありがとう」なんだけど、昨日の稽古で「これこのあと松野くんが追いかけてきて“お礼を言うのは僕たちの方だよ”なんて言ってきたら泣いちゃうな」と思ったら想像しただけでガチ涙出てきて、ひとりでただ泣いてたわ。

松野チョロ松くんが好きすぎて、彼に勇気をもらって行動出来るようになった結果素晴らしい伴侶と出会い、来月にはタカハシ姓になって結果的に彼らの肉声でお礼言ってもらえる立場になったの、くっそウケる面白ギャグなんだよな。誰にもわかってもらえないけど。

ガガガSPの「京子ちゃん」とか「卒業」みたいなのがやりたいん…… チョロ松くんと出会って生まれた衝動をそういう発露でぶつけたいん……

童貞パンク的なものがやりたいのだけど、ああいうのって結局、実在する特定の女の子に宛てた何かのようでありながら、自分の世界/自分と世界 の話しかしてないと思う、それが、夢女イズムと合うなと思って……

どこにも呟けないので(ある種の出落ちだし観に来る人に松野チョロ松への手紙だとバレたらやる前から負けみたいな風に思っているので)、ここに色々書き残してます。

ばら撒く封筒→宛先のない書かれた手紙たち
紙吹雪→形にもならなかった想いたち
最後の手紙は封筒に入ってない→声で届けることを選んだ手紙

ああー チョロ松愛しいな……
(1期18話からのEDからのライジングみてる)

チョロ松が優しい子かと言われると、基本ベースは他者からどう見られてるかで、本質的な優しさでは決してないんだけど、でも人間臭くて人情に厚くて面倒見がよくてほんと、人間なんだよな、チョロ松くん……。愛しい……。

2019年8月23日
チョロ×鶏の新作頒布は18時からです
チョロ鶏というか、チョロ←鶏なんだけど
うおおん🐓

星野源の『恋』の「恋せずにいられないな 似た顔も 虚構にも 愛が生まれるのは ひとりから」の歌詞がすげぇ好きで
結局恋なんて、重めのひとりで見てる幻覚にしか過ぎないんだよな……
重めの幻覚見ても人権奪われないのが二次元のいいところであり悪いところ

悪いところ、ってのは、人はある程度の社会生活を送るには幻覚見てるだけじゃいけなくって…… なのに許されない瞬間がこないから気づけないし成長できないんだよね 目を逸らし続けることが許される 二次元へのガチ恋…… 拒絶も否定もされないから

重めの幻覚を見てる三男推し「高橋のぞみは、我々松ファンが投影されつつ彼らと干渉し合える別世界軸の存在だけど、そう考えると1期灯油のダヨン娘も実質私たちチョロクラの権化なんだよね(?????)」

ダヨン娘、私のなりたいものやりたいこと全部やってくれた………
私も私の世界線にチョロ松くんが来て「本当は(元の世界の)みんなに認められたいけど、口先ばかりで何もできない」なんて言ってきたら、目に涙浮かべて追い返すもん…… たとえチョロ松くんと結婚するチャンスがあったとしても……

ああーーー!チョロカル、永遠に交わらない!!!君の幸せを私は与えられない!!!!!(発狂)

それでもチョロ松くんが好きだよ…… 私はそんなあなたのことをずっと好きでいるし、幸せを祈っているんだ……

ノローグ作品、
作:(恋するニワトリ)
演出:(非実在アカハライモリ
演:年代果林
って感じなんだよな……。理解してくれる人がこの世に何人いるかわからんからわざわざ言わんけど。
そしてある意味で、(恋するニワトリ)が年代果林に戻る物語でもある……

勝ったよおおおおお

オタク、自分の解釈のわかり手はどこまで行っても自分ひとりだから、苦しむ別のオタクに「ひとりじゃないよ」と言ってはあげられないのだけど、でも「私も難儀なオタクやってるよ」って身体張って見せることはできる。あなただけじゃないぜ、と。

勝ち抜いてしまった結果まだまだ本名垢でこの作品についての語りができないので(次が初見の人に「二次元に宛てた手紙」というバイアスがかかった状態で観られるのを極力避けたい)、まだしばらくここで脳内垂れ流してます。

使う道具にも衣装にも「緑」のアイコンを入れないように意識した。「6つ子の中の緑がイメージカラーのキャラクター」じゃなくて、松野チョロ松というひとりの人間と向き合いたい、ひとりの人間に届けたいと思った。

あとは徹底して自分の感情に嘘をつかない。嘘を言わない。腑に落ちた言葉だけを口にする。
構成はフィクションだけど(上演の尺もありますし)、恋心はいつだってノンフィクション。

チョの「言い訳して向き合えないの愛しいしわかる」「でもちゃんと“認められたい”と口に出来た」ところが愛しい、という話をしたけど、そういう自分も「これは自叙伝です」という予防線を張って、実はある種の“楽器”としての俳優の仕事からは逃げている。演技というよりポエトリーリーディング寄り。

「どんな凡人でも人生に一度だけ傑作が書ける、それは自叙伝だそうだ。ならこの手紙が私の傑作になればいい」と宣言してしまったので、このまま勝ち進んでもテキストは変えません。(役者がポンコツだからすぐ似た言葉にすげ替えちゃうけど)(この瞬間ならこっちの言葉の方が腹落ちがいいってのがある)

自転車を持ち込んでスタンドのまま漕いだり、恋するニワトリの歌に合わせて紙を食べてみたり、最後は好きだよって言いながら封筒と紙吹雪をばら撒いたりしました。封筒は天井に当たって全部ブチ落ちてきました。

わりと仲良しでよく個人ラインもするレベルの芝居仲間さんから「いやオタクなのは知ってたけど、ここまで重症だとは思わなかった……」と言われたのがおもろかった(そのための垢分けやねん)(松垢で垂れ流してること本名垢で勢いそのまま流してたら友達も仕事もなくすわ、知らんけど)

2019年8月24日
昨日の撤収後は「私の表現がこんな多くの人に届いて、価値あるものだと言ってもらえた、それだけで十分だ」と思っていたのに、やっぱり賞レース、今日の他ブロックの人たちの得票や見てない作品の感想だけ流れてくると「私のは劣ってるのではないか」「進出できたのも組合せがよかっただけだ、運だ」と感じてしまって、ああこれが、最初は表現が楽しかっただけなのに数やお金との折り合いを考え出すことか、その予兆かと思ってしまったし、もうあの作品はチョロ松くんと私だけのものではなくなってしまったのだ、外に出す、人目に晒すとはそういうことだと改めて感じた。

でもだからこそ、準決勝でもう2ステージ(ステージ数が増えたぜ!)やる時には、作品として「チョロ松くんと私」の純度を下げてはいけない、そこにしか価値がないし(現に技巧面ではたくさんダメ出しもらったし自分も自分にオコである)、そこの価値を汲まれて進出できたのだ、ということを忘れてはだめ。

私は自意識が基本的にライジングしてて、そういう大事なことすぐに忘れるから、書き残しておく!

演劇の演出、「こーーーーんなに好きなんだよ!」というのを、どうやって理解してもらえるか大喜利みたいなもので、でも、両手をいっぱい広げるよりも、もっと伝わる/伝える方法ってたくさんあるから、面白いなぁって、初めて芝居が楽しかったなぁ。初めてでもないけど。

「あなたと同じ二次元に行きたいから紙を食べてみちゃうくらい好きだよ!!!」とか「両手いっぱいの手紙を届けたくなるくらい好きだよ!!!」とか「あなたに会えるのならどんな距離だって自転車漕いで駆けつけるよ!!!」とか、そういうのが、表現、なのかもしれない。

同人誌作る人たちが、技術(ex.クリアファイルに紙を入れると背景が消える)を手にして表現(ex.もういないキャラを背景レイヤーにして分かつクリアファイルを創作する)ようなワクワク。もしかしたら表現先行で技術をどうすべきか考えるかもしれない。そういうのって、オタクの人たちの方が貪欲だからすごい刺激もらってた、松きっかけで二次創作も見たりするようになって。

採算や客受けを度外視した、自分の衝動の昇華、という意味で、やっぱり私のこのひとり芝居は同人誌なんだよな(商業作品、の反対語としての)

2019年8月25日
なんかまぁ、狭い業界内の、さらに身内が主宰者の催しなので、ある意味でライバル視してる相手とか、こいつには負けたくねぇなって相手とか、この人と戦いたいなって相手とかが、勝ったり負けたりして内心はザワザワざわついておりますが、だからこそ「私とチョロ松くん」を貫いて、そこを見なければ。

そうなの
私は誰かに見せたりアッピールするためにチョロ松くんを好きなわけじゃない……
もっと「映え」る相手も感情もある、それでもこれを表現せずにはいられない……

2019年8月26日
自分の必死で泣きそうなほど切実な届かない想いを吐露したら、目の前でたくさんの人に笑われたの、ビックリしちゃったけど、そうかこれが6つ子たちの見てる世界だね!君たちがもがけばもがくほど面白コンテンツになる、私もそちら側に行けるだろうか。赤塚せんせーーーーっ!!!

ノローグというよりはポエトリーリーディングとか詩のボクシングとか、そちらの方がニュアンスが近いし適してると思ったけど、募集してたのがモノローグしばりアンソロだったので……(物の例え
でもだからこそ、俳優が言葉以上のパフォーマンスで見せるにはってところに知恵を絞ったつもりではある。

自分、ものすごく感情に対して適切な言葉を探そうとするのだけど、わかって欲しいからじゃなくて、誤解されたくないから、せめて自分の心と言葉は一番擦りあった表現をしたいのだなと、あらゆる自分の言動について思う。

チョと出会うまでの私の恋は、どうやって気をひくか、どうやって見てもらえるか、そればっかりだったけど、一方通行の夢女になって、何を与えられるか、何をしてあげたいか、ということも考えられるようになって、結果、生身の人間とも交際できる程度の社会性を会得できたんだな……。

2019年9月11日
まだ松野君からの手紙の返事ら読んでないのだけど(読まない限りは「読んでない松野君からの手紙」が手元にある状態なのだ、それはどこかの企業がキャンペーンで用意したものではなく、松野君からの返事なのだ)、なんか使用フリーフォントはこれです!みたいなツイットを見かけてしまい、いや松野君が書いたに決まってんだろ!?!!!と解釈違いを起こして拗らせ夢女人生がつらい。(ツイット主さんは悪くない)

2019年10月16日

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まだ返事あけらんない。パンドラの手紙。

2019年10月17日
チョに宛てた手紙モノローグ、次が準決勝なのですが、劇場なので本火(ガチの火)はダメだよ、どうしてもやりたいなら決勝まで行ったら消防法まで面倒見てやるよ、とスタッフさんに言われて、手紙を燃やすという演出はできてないのですが、これ決勝行けたら、一番最後の「ありがとう」だけ封筒燃やしたらどちゃくそ泣けるじゃん(私内調べ)ということに気づいたので、もし勝ち進んだらそうします。備忘。

松野くん、と、たくさん呼びかけているけど、そうなんだよ、私は、6つ子の三男が好きなんじゃなくて、松野チョロ松という人間を、愛しているんだ、彼という個人と向き合いたいと思い、願うんだよ……。

2019年10月18日
昨日仲良しの照明さんに「あのタイミングでの明かり変化って効果的かな?」と聞いたら「意図によるけど」と言われて、自分としては絶対に「ここだ!」ってタイミングで変えてたのだけど、何故「ここだ!」と思うのか言語化できてなかったなーと考えて、5分間のこの手紙は3部構成になっているのだなと自分で気がついた。
冒頭は「同じ次元に立つチョロへの言葉」、中盤で「回想と次元の差の認識」、終盤で「次元が違うことを理解した上でのチョロへの言葉」。現実と向き合うという意味で、“恋するニワトリ”の成長譚でもある。

色々分析すると、我ながらなんと上手い構成だろうと思うのだけど、自分で予防線張ってる通り「自叙伝1本ならみんな奇跡の傑作が書けるよ」って話で、これを仕事にして品質を保つのは難しいから、世の職業作家はスゲェなと思う。
でも自分のやりたい作品のために自分の引き出し全部開けてみるの楽しい。

冒頭の一文で「ラブレターなんて書くの初めてだから」と言ってしまうことで、これはラブレターですと提示してしまうの、5分という制限の中で天才すぎるのでは(自画自賛スタイル)

ガガガSPみたいなのやりたいんだ。『京子ちゃん』ならぬ『松野くん』なんだ。
というかガガガSPの『卒業』が一番近い。歌詞と私のテキスト並べると受ける印象は真逆だけど、結局は「あなたを思い続けたままでは前に進めないけど、あなたを想う日々は幸せだ(った)よありがとう」ということなので。

昨日のリハはやたら謎の自信があったけど、わーこれは、強豪揃いだあ、と、いう、気持ちになっている。
やることをやるだけ!!!

2019年10月19日
明日が最終回かもしれない、と思って、演目の最後に「追伸」をつけるか迷っている。追伸、三年かかったけど、私は私の世界で幸せになれたよ、と。
自分の自己満足としてはそりゃつけたい。つけたいのだけど、物語としての強度は落ちる。自分の作品、やりたいことやるのは一番だけど、作品の作り手としては、それを許していいのか、という話になるんだよな。
演目はほぼピッタリ制限時間5分で作ってるので、追伸を入れるのを自分でゴー出すにしても、ドラマとして展開する余裕はない。
一番(自分含め)誰も損をしないところだと、まぁ台本を公開する時にこっそり追加する、とかかな。

限界夢女子を発狂型面白コンテンツとしてお楽しみいただいた場合、共感にしても、鑑賞対象として笑ってもらうにしても、最後にフリもなく「あ、でも今は幸せなんですけどね!」ってだけ入るのは、よくないな、うん、よくない。(書いててなんか腑に落ちたらしい

チョロへの恋愛妄想の日々で恋愛意欲がわき、幾ばくかの勇気を得たことで旦那氏にアタックできて、いまうっかり幸せハッピーなことは、また改めてどこかにしたためるしかない。というか、本当は「ねこの森には帰れない」をモチーフに、夢女子を卒業してしまった悲哀の話も書きたい。

いま気づいたのだけど、私がもともと面識あった旦那氏にアプローチする勇気を出せたのはチョへの疑似恋愛を経たからなのだけど、でもそもそも、松を見たきっかけ自体が、旦那氏との接点が欲しくて共通アニメ見ようとして登録したdアニメストアで目についたからだったのだな……?なんだすげぇな、運命か?

振り返ったら、考察アンソロで文章寄稿、カプアンソロでイラストカット、同人動画メドレー企画で動画と、わりとあらゆるジャンルの松創作に、企画に乗っかる形で関わらせてもらったんだな……。そして最後はモノローグ演劇祭というオールジャンルアンソロに、演劇で。なんかウケるな。

このチョへの手紙モノローグが終わったら、チョロ×鶏至上主義から、旦那氏×私の家庭と、でもチョロは可愛い、という感情に落ち着けてしまうかもしれない。それは寂しいことではあるけど、卒業なのかもね。
感情って、昇華されてしまうものなのだなあ。
しかしだとしたらずっと何かの代替品としてチョを殴り続けてしまったことにもなるのかもだけど……。でもそこは二次元だから……。生身の人間相手ではない、そこにズルさを求めてはいけないのかもしれないけど、でも、事実、ね。
恋と信仰は似てるけど、信仰が愛になるのは難しい。

2019年10月20日
ちゃんと松野くんに、ありがとうとさよならを言えたのだ、きっと私は。
と、Cさんのツイートを反芻して、改めて実感が湧いてきて涙出てきた。
ああ、恋だったなあ。ひとつの青春だったなあ。
その想いと時間を一緒に駆け抜けた友に見届けてもらえて、本当によかったなあ。(Mさんありがとう)

もう少しコンテンツとして「消費」しやすいフィクションに振った方がよかったのかなとは思うけど、そこはやっぱり演出家がいないと微調整はできなかったし、でもどんな演出家も私のわかり手ではないので、同人誌としてはこれがベストだったんだろうな。

例えだけど、同人誌でも、想いや萌えをぶちまけるにしたって、画力の高い方が多くの人の目に止まるし手にとってもらえるのと同じで、今回のポイントや感想量という結果を見ると、つまり神絵師(適切な鍛錬を積んで表現力を磨いた人)の方が頒布力あったというだけなのだなぁというところに腑落ちした。

熱量を人に届ける「技術」がある方が、多くの人に届く。当たり前だけど。
技術のないひとの情熱の価値がそれによって落ちるわけではない、それは大前提だけど、ああ技術を磨く意味ってそこにあるんだなあ。(表現者志して何年目だ

逃げたら、チョにもらったものも全部、嘘にしちゃうなと思って踏ん張れただよ。結局最後に人を支えるのは信仰だと思う。恋でも愛でもなくあの感情は実は信仰。

チョは2期でまぁわりと人格としては振り出しに戻ってた部分も大きかったから、そこはまぁ、複雑ではあったけど……。手紙の燃えなかった世界のチョを信仰するので……。