最後の日が来るなんて聞いてない
中学生のころ、初めてお付き合いをした男性、左近允先輩が
「ああ俺幸せの絶頂だなって瞬間に、車に轢かれて死にたい」
という話をしていたのを、よく覚えている。
私の故郷はニュータウンとは名ばかりの開発が頓挫しつつあった町で、古くからの商店街なんてものもなく、商業施設は駅前にできたジャスコくらい。
あとは森と、開発予定が未定のままの草むらの空き地ばかり。
色めき立つ中学生がシッポリふたりになれるような気の利いた場所もなく、私は先輩と、学校帰りに団地の屋上で星を見ながらしょっちゅうふたりで話していた。
私は1999年の世紀末にはまだ小学校3年生で、たとえばちょっと上の世代なんかは、
ノストラダムスだかが流行った頃、いつか来る終末の日を想像しては布団の中で泣いて震えたなんて言うけど、
少なくとも私はそんなこともなく、むしろ21世紀への変わり目だなんて未来に胸を膨らませていた世代の子供だった。
幸せの絶頂で死んじゃいたい。
きっとある種の厨二病的な発言だったのだろうけど、このふともたらされた「理想」は、私の「人生と幸福について」を考える際に、ひとつ、とても大きな存在感を持って居座るようになっていた。
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最高に楽しい物語の上演期間中、このままふと、世界が終わってしまえばいいのにと思うこともあった。
ガガガSPの『まつりの準備』にも近い。いやあれはちょっと違うけど。
終わりがきて欲しくない。でも終わりが見えないまま走り続けることもできない。慣れて、ダレて、日常になってしまう日が来る。
だからここで強制的に世界を切り取って、終了させて、密封して、「永遠」にしてしまいたい。
そんな無茶苦茶なことを願うような「作品」に、つまり「世界」に出会うことがあるのだ。
世界、いっせーのせ、で、みんなで終わりたくないですか?
私、ひとりとか、仲間外れが、本当に、耐えられない生き物で、
だから、いっせーのせ、で、終わる世界、本当に理想なんですよね。
かこつけて、そういう、自分が日頃感じてたことを話したかっただけです。はい。お気づきでしょうが。
みんなでいっせーのせ、の、擬似体験できたの、ほんと、最高すぎたんですが。
擬似終焉。なかなかないよ。最高すぎる。
3時間という、短くも長い時間を彼らと共に過ごして、私も島の一員な気持ちになって(会議中危うく挙手してしまうところだった)、そして一緒に滅亡できたの、すごいね、嬉しかったよ。
彼らの世界は続かない。私たちの知らない彼らの「続き」の物語はない。語り部すらいない。
この物語において、彼らと私たちの「終焉/終演」の位置は同じだ。こんなに幸せなことだとは思わなかった。私は客席でひとりぼっちじゃない。
きっといつか世界が、人生が終わった先には天国も地獄もなく、「本日の公演は終了しました」というアナウンスだけが流れる。
<guizillen『ギジレン島 最後の7日間』に寄せて>