アカイモリ企画

両生類とは水でも陸でも生きれるということでなく水と陸がないと生きられないものたちです

あなたのイチブしか知らずにいたい

実は他者の人生に踏み込んで抱えられる量ってある程度決まっていて、今までは「自分に見える部分」だけを取扱うことで、たくさんの他者と触れ合ってもなんとか社会や生活は機能していたのかもしれない。それがSNSによって、あらゆる人のごくごく個人的な部分まで目に入り流れ込むようになってきてる。

これはTwitterにより発生した話ではなく、むしろmixiやブログなど「他者の日記を読める」ようになった頃から、その流れは生まれていたのだろう。
あるいは別の観点で、SNSが既知の相手と繋がるツールとしての役割も大きくなり、それまではネット上の知らない他人の深い個人的な吐き出しだけを誰とも知らぬまま閲覧してたのが、ごく身近な人の心の内まで覗けるようになってしまったというのもある。

「あなたのそれを知らなければ、よき仕事仲間/友人でいられたのに」となる部分は人間誰しも絶対ある。それは宗教的信念だったり、内に秘めた差別意識だったり、政治的スタンスだったり。呟きによって、知らなくていいこと、までどんどん大っぴらにしてしまう流れがある。個人の判断の上での発信とはいえ。

 

自分が勝手に想いを投影して想像を巡らせる相手、が、減ったな、と思う。偶像が足りない。


たとえば私は最近行きつけの大好きな店があって、店長も私を認知してくれてるんだけど、私は店長の名前も知らない。

店長のSNSの発信があっても読みたいと思わないな。誰かを攻撃してたりしたら泣いちゃうし。店長はたぶん優しいけれどもこだわりが強い人で、だからこそ、私の好きなあの美味しい料理が作れるとわかる。でも、いい作品を生む人がいつでも人格者だとは限らない。

あの店長はどうしてあそこに店を構えたのかな、有線はいつも洋楽だけど好きなのかな、店内の絵葉書は誰かのお土産かな、そう想像を巡らせるのが楽しい。答えを知りたいわけじゃない。むしろ知らない方が楽しい。ただの客として、美味しい料理をいただく、それだけの関係がいい。個対個、は疲れる。

たぶん、仮の話で、店長が特定の人種や思想を差別するような発言をしたら、私は「好きだったのにガッカリした」と言うと思う。そしてもう店には行かなくなると思う。
ファンやめます宣言をする人は元々ファンじゃなかった、みたいな風潮嫌い。勝手に誰かを好きでいたり嫌いになったりする権利は誰にだってある。

閑話休題

あの店長が何を考えて、どんな評価を周りからされていて、あの店にどんな歴史があるのか、たぶんレビューサイトとか見れば簡単に知れてしまうのだろう。もしSNSをやってたらそこから覗くこともできるのかもしれない。

でもまだまだ、観察し、想像し、慮る、そういうコミュニケーションを楽しみたい。最近のささやかな至福の時間なのだ。妄想を押し付けてしまったらそれは暴力性を孕むけど、内心にはいつだって自由が保障されている。